大阪地方裁判所 昭和44年(わ)340号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕(罪となるべき事実)
被告人は、昭和三七年一〇月多田純(昭和一五年七月一二日生)と結婚し、同三九年八月二〇日長女千秋を、同四一年一月三〇日長男文夫をもうけ、同年一〇月頃から大阪市港区弁天四丁目三番地の一三(旧住所名、八雲町四丁目三三番地)の田中アパート二階に居住していたものであるが、右千秋が生れた頃から子供のことなどで夫、純としばしば夫婦喧嘩をし、同人にに殴打される等の乱暴な仕打を受けるようになつた。生来内気で神経質な性格の被告人は、このような夫の態度に人一倍強い不満を抱き、しかも夫と話し合つたり、両親と相談することもなく、一人思い悩んで、前途を悲観し、離婚や自殺まで考えるようになつていたが、昭和四三年一月二八日午前二時頃、右文夫が夜泣きして、むづかつたところ、被告人が泣き止ませないといつて、夫純に顔面を数回殴打され、口惜しさのためその夜は一睡もできなかつたが、さらに、同日朝同人が被告人の折角準備した朝食を摂らずに出勤したことに心痛し、自分としては一生懸命に夫に尽しているのに、夫は何故このように乱暴や嫌がらせをするのだろうかと、煩悶するうち、これまでうつ積した夫への不満感が嵩じ、将来の生活を絶望し、遂に、自殺しようと考えたが、自分の亡きあとの子の将来を憂慮し、右千秋と文夫を道連れにいわゆるガス心中をしようと決意し、同日午前一一時頃、右部屋の奥六畳の間の布団に、右千秋と文夫を寝かしつけ、炊事場のガスの元栓からゴム管を右布団内に引き込み、ガスの元栓を半開して都市ガスを布団内に放出し、自分も睡眠薬を服用の上右両児の間に添寝し、よつて同日午後六時三〇分頃、同所に於て右千秋および文夫の両児をして都市ガス吸引による一酸化炭素中毒により死亡するに至らしめて殺害したものである。
(法令の適用)
被告人の判示各所為は、いずれも刑法一九九条に該当するが、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により、一罪として犯情の重い千秋に対する殺人罪の刑で処断することとする。犯情について考えてみると、本件犯行は、両親の不和が原因で、何の罪もない幼い二子を殺害する結果を招いたものであり、母としてその子らを将来心身ともに健やかに育成すべき責務を有した被告人が、自らもともに命を絶つ覚悟であつたとはいえ、右のような重大な結果を招来した、その罪責は決して軽いものではない。我国の現状においては、まだまだ本件のような、母親が子を道連れに心中をはかるという事例が跡を絶たない。その原因はいろいろと考えられるであろうが、その最も重要なものの一つとして、我が国におけるそのような母親に、自分の生命を重んじないのみか、子が自分とは独立した一人の人間であること、子を健全に育成することは社会的責務であることを正しく理解せず、子を自分の分身または所有物であるかのように思い誤つている非近代的な心的傾向があることを、見逃がすことができない、そのような母親の多くは、本件被告人がそうであつたように、自分の亡き後残された子の将来を憂慮して子を道連れにするのであるが、そのような心情のうちにも、子を自分の分身か所有物と考える母の心理を否定することができない。そしてそのような母の心理が母としての深い愛情に根差していることも理解に難くないのであるが、しかし、そのような愛情は、いまだ母性的本能の域を出ないものといわねばならず、子を自分の分身か所有物のように考える考え方は、人間尊重を建前とし、子が親から独立して尊重されるべき人格を有することを認める我が法秩序においては、厳しく批判されねばならない。もつとも、我が国の一般的社会的風潮は、人間の生命に対する尊重の念がいまだ充分でなく、母子心中の事案についても、母親の本能的愛情や情緒的心情を理解するの余り、一人の人間の生命を奪うことに対する罪悪感、社会的非難の度は必ずしも厳しくはないかもしれない。しかし、当裁判所は、前記のような法秩序のあり方に鑑み、この種事案における被告人の罪責は決して軽いものであつてはならないと思料する。
そして、本件具体的事案に照してみても、本件犯行の原因となつた被告人夫婦の不和はそれほど深刻なものではなく、夫純は、被告人の気持に無理解なところがあり、ときどき被告人を手で殴打したが、それが重大悪質なものであつたとは認められず、被告人が、夫と話し合い、また両親に相談に乗つてもらうなどすれば、夫との間に相互理解ができ夫に対する不満も解消できたと思われるのに、一人思い悩み、生きる勇気を失くして、前記のような努力をせず、本件犯行に至つたのは、被告人に重大な責任があるといわねばならない。
しかし、被告人は、生来内気で神経質な性格であつたため、夫に対する不満を誰にも打明けられず、一人で思い悩み、しかも本件犯行前夜は判示のとおり一睡もせず、これらの心身の疲労のため、本件犯行当時かなりノイローゼ気味であり、著しくはないが、かなり精神的変調をきたしていたこと、また、被告人は、本件自殺未遂の結果、一酸化炭素中毒症に罹り約三ケ月間の入院加療を続けたほか、二子を殺したことによる精神的打撃は著しく、その影響は今日まで継続し、将来も決して消え去ることはないであろうと思われ、それが、被告人にとつて何よりもの陵罪となつていること、等本件証拠に顕れた諸般の情状を考慮し所定刑中有期懲役刑を選択して同法六六条、七一条、六八条三号により酌量減軽した刑期の範囲内で被告人に対し、懲役二年を科し、同法二五条一項により三年間右刑の執行を猶予するのが相当と考える。(松浦秀寿 黒田直行 中根勝士)